・・・少し長いですが
私の人生についてお話させていただきます。
興味がある方だけ読んでみてください。
<誕生〜幼稚園、小学生時代>
1979年2月11日
埼玉県の大宮市(現さいたま市)
宮原で生まれました。
大宮に住んでいたころの記憶はあまりないです。
幼稚園の頃家族で
所沢に引っ越してきました。
そこからの記憶は結構あります。
椿峰ニュータウンという
新興ベッドタウンに住んでいました。
小学校も椿峰小学校でした。
近所には
西武ライオンズの選手なども
たくさん住んでいました。
同じ小学校に
野球選手の息子さんなども
通っていました。
その時代は西武ライオンズ黄金期で
野球はとても盛り上がっていました。
私自身も少年野球に参加していました。
運動神経が鈍く
レギュラーは取れず
補欠選手でしたが楽しかったです。
デーブ大久保選手に
一緒に遊んでもらったり
伊●選手にサインをねだったら
怒られたり・・・
子供の頃の野球の話は
良い思い出ばかりです。
<中学校~高校>
中学校では柔道をやっていました。
それなりに一生懸命やっていて
県大会に出場したり
近隣の高校からスカウトが
きたりもしましたが
「一生懸命やっても県大会レベル
しか出せなかった」
ということを感じてしまい
柔道は中学までで
やめてしまいました。
「上には上がいる」
ということもよく理解できましたし
「たとえ一生懸命取り組んでも
かなわないこともある」
ということもよくわかりました。
けれども
「一生懸命何かに取り組むことで
ある一定の成果は出せる」
ということ学べました。
中学校の頃にそうした体験をして
本当によかったと思います。
子供の頃から運動が苦手で
少年野球でも補欠、
持久走でもびりから3番目
くらいのどんくさい子供だったのに
柔道に真剣に取り組み
50メートル走も7秒台
1500メートル走も5分台
と人並みの運動成績が
取れるようになったのです。
しかしながら
部活に集中しすぎてあまり勉強に集中できず
希望の高校に進学できませんでした。
ここから少し暗黒時代に入ります(笑)
<高校時代~暗黒期>
・・・この時代は
希望の高校に行けなかったショック
から暗黒時代に突入しました。
よって写真もないですw
★勉強しなかった自分が悪いのですが、、、
高校時代は
本当にやる気を失っていました。
成績はぎりぎり
遅刻欠席当たり前
友達もろくに作らない
「今の自分は本当の自分でない」
と妄想ばかりしていました。
、、、そのころ
東京ストリートニュース
という雑誌が流行っていて
高校生の分際で自分でパーティーを
主催し、DJなどもやり
雑誌の特集も組まれてしまう
という、いま考えると無茶苦茶な
カリスマ高校生が出現し
衝撃を受けたのを覚えています。
「自分は埼玉の片田舎でつまらない
高校生活を送っているのに
何だこれは・・・!!!」
と。
まあ、こんな考え方してるから友達も
できなかったし
暗い青春になってしまったのですが
自分もDJになったり
パーティーを主催したい
と考え
大学デビューし
華やかな一発逆転を目指し計画を立て始めます。
勉強はそこそこやるふりして
大学に潜り込んでしまえば
自分もdjの活動などできるのでは?
と考えて大学進学することにしました。
<大学時代とさらに暗黒時代>
大学には
渋谷のレコード屋さんに行きやすいから
という理由で
世田谷区にある某大学に進学しました。
なぜ某大学か、
名前も明かさないかと言いますと
なんとその大学も一年で
退学してしまうことになるからですw
そもそも
djをやりたいから
何となく大学に行くフリをする
何というふざけた動機でしょう。(⌒-⌒; )
こんなんで大学生活が続くわけもなく
一年で退学をしてしまいました。
退学してからは
フリーターとしてアルバイトをしながら
djをやり有名になることを目指すという
いま思うと夢のような
バイトと
音楽活動をするだけの生活
をしていました。
しかしながら
ずっと遊んでいては
人間不安になるもので
将来について悩み出し
21歳の頃、ふたたび手に職をつけるため
鍼灸の学校に行こう、と思い立ちます。
なぜ鍼灸の学校だったのか?
正直人に語れるほどの
立派な理由はありませんが
接客する仕事が好きだったから
それに就きたかった。
・・・
いろんな接客業があるけど
医療系ならば
なんか将来安泰なんじゃないか?
くらいの軽い動機でした。
こうして21歳の頃ふたたび学生になりました。
行った学校は新大久保にある
東洋鍼灸専門学校という学校です。
<鍼灸学校に入学。しかし、、、、>
鍼灸学校に入学してからは
心を入れ替え
トップで卒業ししっかりと
手に職をつけよう
と心に誓いました。
、、、がその夢はすぐに終わり
また音楽活動を始めてしまいました。
理由は
少し落ち着いたら暇になってしまったこと
知り合いの先輩と一緒に
ファッションや音楽を巻き込んだ
イベントを企画しよう
という話から始まり
また音楽活動を始めてしまったところ
意外とうまくいってしまった
というのが原因でした(⌒-⌒; )
たぶん一度、
音楽やdjの道を
諦めたのがよかったのでしょう。
肩の力が抜け活動がうまく行きました。
鍼灸学校に在学中は
バンドに参加したり、
音楽制作の現場スタジオに顔を出したり
するようになりました。
本当に楽しい時代を過ごしました。
鍼灸はどうした??
という感じですが
さすがに鍼灸学校まで
ドロップアウトしてはまずい
と思い
何とか卒業し
鍼灸の国家資格も取りました。
<卒業後、治療院で働きながら音楽活動>
卒業後もそんな感じで
治療院で働きながら
音楽活動をする
というなんとも
ふざけた生活を送っていました。
★こんな社員を雇ってくれた
当時の社長には本当に頭が上がりません、、、
音楽活動は順調で
自分の名前でメジャーレコード会社から
CDが3枚でたり
有名な音楽ゲーム(音ゲー)
に楽曲参加させてもらったり、、、
・・・なんか
今こうして振り返ってみると
本当に何をしているのか?
という感じですね。
しかしながら
30歳になった時に初めて気がつきました。
自分自身好きなことや
やりたいことをやって生きてきたけど
全然お金もかせげていないし
何をしているのか??
と。
要するに、
音楽活動をやり続けてみて
一生それで生活したりする
実力もない事に
また気がついてしまったのです。
柔道でもそうでしたが
これもひとえに
一生懸命やったからこその気づきであり
だからこそ諦められたわけですが
まずは
自分の仕事を真剣にやってみよう
と決意します。
★ちなみに今でも音楽製作の仕事は
年に一曲ほどありいまでも
たまに製作しています。
近年は携帯アプリの音楽ゲームに
楽曲提供しました。
またその頃から
周囲のクリエイターで
体調の不調・メンタルの不調に
悩む人が多くいて
よく相談に乗っていました。
クリエイターは感性を酷使するため
とくに不調になりやすいです。
そういった方の力になりたい
メンタル面で悩む方の力になりたい
という気持ちはその頃から
強く芽生えるようになりました。
<34歳で独立を決意する>
仕事を真剣にやり始めてからは
いろいろな方にお世話なり
務めていた会社も自分がやっていた仕事も
順調に大きくなっていました。
・・・
しかし
34歳の頃転機が訪れます。
社内で仕事をするよりも
会社の外に出て
医師や弁護士の先生、
保険会社の方々など
仕事をする機会が増えたのです。
そこで
様々な方と知り合いになりました。
そうして
「治療家」
だけではなく
様々なことに携わっていきたい
思いが強くなっていきました。
また
「治療」も大切だがその前の
「相談」(カウンセリングや説明)が
大切だと思いはじめ
何とかそれを形にするような
会社や組織が作れないか???
という思いが大きく
なってきました。
そこで今までお世話になった
会社を辞めて
自分で仕事を始めることを決意しました。
その当時、
交通事故や労災などに遭ってしまった後、
治療をどう進めるか?
という相談に
数多く応じていたので
会社の名前は
「交通事故治療相談室」
にしました。
★からだ相談室
と迷いましたが
最終的に上記の名前にしました。
様々な場所を調査しましたが
実家から近くなんとなくピンと来た
田無で開業することにしました。
<開業してからは相談活動・治療活動・
読書に励む>
開業してからは
月に最低5冊は本を読み、
また治療活動や相談活動に精を出す
という幸せな日々を送っています。
紆余曲折遭ったこれまでの人生でしたが
それは多分私だけの経験でなく
皆さんの人生もいろいろあるのだと
感じます。
一人一人の人生に寄り添えるような
施術や相談を行いたいと
心から思っています。