論考まとめ:気と水のコスモロジー~中国古代の身体観と医学観
年末年始にかけて学習した堀池信夫先生の論考が素晴らしかったのでここにまとめようと思います。道教の生命観と身体観という本からの引用で「気と水のコスモロジー~中国古代の身体観と医学観」というタイトルです。以下、章ごとに要約をまとめます。
1,医療と文化的多様性
医療とは人類が病気というものに出会って以来の集積としての文化行動である。大きく分け3つの形があり狩猟採集生活の中で誰かが薬となるものを偶然に発見した、呪術的感性のもとに何らかのアナロジー的発想からの療法を発見した、頭痛の時に頭を押さえるような反射的あるいは習慣的行動の中から療法を発見した、に分けられる。
医療行為は、その社会の文化的経験の集積で地域的特色も明確化してゆくことになる。そのプロセスではマクロ的にはその社会の持つ世界観、ミクロ的には身体観というものが多かれ少なかれ影響していたと思われる。だがその場合にそうした世界観や身体観が一つの社会につき一つしかなかったとみるのはおそらく幻想である。実際には相当の多様性があったのではないかと思われる。中国の世界観や身体観、ひいては医学観もそうした多様性を内包しているものと思われる。
2,気の身体観
中国の伝統的世界観ではこの世界はすべて気によって形成されるという考えである。人間も同様に気で形成される。精神も身体も気によって形成されたと考えられていた。そのため心身二元論では考えないのである。これを証するものとしてよく荘子・知北遊(ちほくゆう・道のあり方が説かれている古典)が引用される。
生は死の徒なり。生は死の始なり。だれかその紀を知らん。人の生は気の聚りなり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死となる。若し死と生と徒なれば、吾れ又何かを患えんや。故に万物は一なり。
この文章は万物は一体で死生は一如であるということを言っている。そして気の聚である高密度状態が生、発散し希薄になれば死になり人間の身体は気において成り立つという考えが示されている。
そして後漢書の趙咨伝(ちょうしでん)には気は身体の構成要素であるというより身体の構成要素をげんにある身体という形態に統括している機能(あるいは機能を持つ何者か)として書かれている。つまり気以外が身体で気がそれを統括しているということになる。
夫れ含気の倫、生あるものは必ず終わる。蓋し天地の常期、自然の至数なり。・・・夫れ亡するとは、元気の体を去るなり。貞魂遊散するなり。素に反り、始に復り、無端に帰るなり。(身体は)すでに消失し還りて糞土に合す。