鍼灸臨床における臨床推論とその適用:鍼灸師は仮説演繹法中心の思考が難しい理由
序
鍼灸臨床において、治療方針を決定するためには適切な臨床推論が不可欠である。臨床推論にはさまざまな手法が存在するが、日本の鍼灸師がどのような推論方法を活用すべきかについては十分に議論されていない。本稿では、現代医学と中医学における臨床推論の違いを整理し、日本の鍼灸師がどのような思考法を中心に据えるべきかを考察する。特に、仮説演繹法(hypothetico-deductive method)とアブダクション(abductive reasoning)の比較を通じて、鍼灸臨床における最適な推論法について論じる。
1. 臨床推論とは何か
臨床推論とは、医療従事者が患者の情報をもとに診断や治療方針を導き出す思考過程を指す。これは、患者の訴えや検査結果などを分析し、適切な診断と治療計画を立てるプロセスである。伝統医学にも独自の臨床推論方法が存在するが、ここでは現代医学における臨床推論の発展について簡潔に説明する。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、病理学、解剖学、生理学などの基礎医学が急速に発展し、医学知識の体系化が進んだ。この時期、診断の正確性を高めるため、経験や直感に頼るだけでなく、科学的根拠に基づく思考プロセスの整理が求められるようになった。この流れの中で、臨床推論の概念が形成されていった。(参考1)
1990年代以降、エビデンスに基づく医療(Evidence-Based Medicine, EBM)の概念が普及し、診療の意思決定において科学的根拠を活用する重要性が強調されるようになった。(参考2)EBMの普及により、医療従事者は個々の患者の状況に応じて最適な診断や治療を選択するため、臨床推論のスキルをより一層求められるようになった。(参考3)
このように、臨床推論は医学の発展とともに進化し、現代の医療において不可欠な要素となっている。以下に代表的な臨床推論の例を挙げ説明する。
仮説演繹法(Hypothetico-deductive method)
仮説演繹法は、論理的かつ体系的な思考が可能であり、仮説の検証を繰り返すことで診断の精度を向上させる。また、現代医学で広く用いられる方法であり、EBM(根拠に基づく医療)との相性が良い。一方で、仮説の検証にはデータ(血液検査・画像検査など)が必要なため、日本の鍼灸臨床では活用が難しい。また、検証に時間がかかるため、即時の診断が求められる場面には向かない。
直観的診断法(Pattern recognition / Intuitive diagnosis)
直観的診断法は、経験豊富な臨床家にとって非常に有効であり、多くの症例を見てきた医師や鍼灸師は短時間で診断が可能となる。また、即時判断が求められる救急医療などの場面では特に有効である。しかし、誤診のリスクがあり、思い込みやバイアスが入りやすい点が課題となる。また、経験の少ない臨床家にとっては再現性が低く、活用しづらい側面がある。
徹底検討法(Exhaustive method)
徹底検討法は、すべての可能性を検討するため、見落としが少なく、特に多疾患併存の高齢者などの複雑な症例に向いている。一方で、一つ一つの可能性を検討する必要があるため時間と労力がかかり、効率が悪い。また、全ての症例で実施するのは非現実的であり、リソース不足につながる可能性がある。
アルゴリズム法(Algorithmic method)
アルゴリズム法は、診断の標準化が可能であり、誰でも一定レベルの診断を行うことができる。明確なプロトコルに従うため、診断手順が整理されている点も利点である。しかし、個別対応がしにくく、患者の特徴に応じた柔軟な対応が難しい。また、アルゴリズムにないケースでは適用できないため、特殊な症例には対応しきれないことがある。
アブダクション(Abduction / 仮説生成的推論)
アブダクションは、限られた情報から最も妥当な仮説を立てることができ、中医学の弁証論治と相性が良い。また、直感的診断と仮説演繹法の中間的な立場として柔軟に使える。しかし、厳密な実証が難しく、「最も妥当そうな仮説」を立てるに留まることが多い。また、経験の少ない者が使用すると精度が低くなる可能性がある。
2. アブダクション推論と中医学弁証論治の類似性
アブダクション推論とは、与えられた情報から最も妥当な仮説を導き出す推論方法である。この思考法では、起こった現象をもとに推論し、その原因や背景を探ることが重視される。
この点において、中医学の弁証論治はアブダクション的な思考と多くの共通点を持つ。中医学では、舌診・脈診・問診・触診などの情報をもとに、最も可能性の高い「証」を設定する。これは、論理的な実証を経るのではなく、観察した現象をもとに、経験則に基づいて仮説を立てるというプロセスを重視する点で、アブダクション推論に近い発想であると言える。
3. 仮説演繹法は現代医学的な思考法に適している
仮説演繹法は、仮説を立て、それを検証し、必要に応じて修正を加えることで思考を深める方法である。この手法では、明確なエビデンスに基づく検証が不可欠であり、その点で現代医学において特に有用とされる。
例えば、リウマチの診断において、かつては臨床症状をもとに診断が行われていた。しかし現在では、精密検査を行い客観的なデータを用いた診断を行っている。(参考4)このように、科学的なデータを重視する現代医学の診断プロセスにおいて、仮説演繹法は極めて適した思考法である。
4. 日本の鍼灸師はなぜ仮説演繹法ではなくアブダクション推論を思考の中心に据えるべきか?
(1) 日本の開業鍼灸師が直面する法的制約
日本の開業鍼灸師は、血液検査や画像診断などの医学的検査を実施できないため、仮説演繹法の厳密な運用が難しい。医師であれば、仮説を検証するために様々な検査データを活用できるが、鍼灸師はそれができない。そのため、問診・脈診・舌診などの情報をもとに、最も妥当な仮説を立てることが求められる。
例えば、「頚椎ヘルニア」と診断された患者が、頚部の痛みを主訴に鍼灸院を訪れた場合を考えてみよう。医師であればMRIを撮影し、神経圧迫の有無を確認できるが、鍼灸師にはその手段がない。そのため、患者の症状や身体所見から「気滞」「血瘀」「筋緊張」などの仮説を立て、それに基づいた治療を行い、結果を観察することになる。
近年では、開業鍼灸師でもエコー機器を用いた刺鍼ガイドの手法が導入されつつある。しかし、これは診断や治療効果を科学的に検証するためのものではなく、あくまで補助ツールとしての役割にとどまる。
(2) 仮説演繹法を「補助的」に使うとは?
鍼灸臨床では、まずアブダクションによって仮説を立て、それを施術後の患者の反応をもとに修正していく。この段階で、仮説演繹法が補助的に活用される。
例えば、「気滞が原因で肩こりが生じている」と仮説を立て、太衝・合谷などのツボを選択して施術を行う。
結果A: 治療後に肩こりが改善した → 「気滞」が関与していた可能性が高いと考え、次回も同様の治療方針をとる。
結果B: 症状がほとんど変わらない → 「気滞ではなく、血瘀や筋緊張の影響が強いかもしれない」と仮説を修正し、次回は異なるアプローチ(例えば瘀血を除く治療)を試す。
鍼灸治療では治療結果をフィードバックしながら仮説を更新するため、仮説演繹法は「最初の仮説を証明する手段」ではなく、「治療後の評価をもとに仮説を調整する手段」として補助的に用いるのが現実的である。
また、内科的な重大疾患の可能性を否定できない場合や、骨折などの構造的異常が疑われる場合は、仮説演繹法的な思考で現代医学的な評価を行い、必要に応じて医療機関で血液検査や画像検査を受けるよう勧めることが求められる。このように補助的に仮説演繹法を使うこともあり得るのである。
結
日本の鍼灸師は、臨床推論の中心にアブダクション的思考(伝統医学的思考や弁証論治など)を置きつつ、仮説演繹法を補助的に活用するのが現実的である。鍼灸治療は、即時的な効果だけでなく、経過観察を通じて治療方針を調整するプロセスを伴うため、仮説演繹法を診断の根拠とするのではなく、施術後の評価や次回の治療計画に活かすことが適切といえる。一方で、医師は血液検査や画像診断を活用できるため、より科学的な実証が可能であり、仮説演繹法を思考の中心に据えることができる。鍼灸師と医師では、法的な制約や職務範囲の違いから、思考方法にも差が生じる。同じ推論方法を用いることは現実的ではなく、それぞれの役割に応じた最適な思考法を採用することが求められる。
伝統医学的な臨床推論と現代医学的な臨床推論を単純に並列に論じることは難しいが、その融合の可能性を探るために本考察を行った。本稿が、鍼灸臨床における思考プロセスの再考の一助となれば幸いである。
★2019年に錦房より発売された丹沢章八先生の『臨床推論 臨床脳を創ろう』を拝読し、疑問に思ったことをまとめる試みとして本論考を書きました。また中医学会総合診療研究会さまのこちらの文献も大変参考にさせていただきました。心より感謝の意を申し上げます。
参考
1:検査と技術 47巻5号 (2019年5月発行)医学書院
一例としてカール・フォン・ロキタンスキーは、19世紀に病理学を記述的な学問から説明的な科学へと発展させ、約60,000件の解剖を通じて臨床症状と病理学的所見の関連性を明らかにした。
2:Evidence based medicine: what it is and what it isn’t BMJ
この論文では、EBMの定義とその臨床実践への適用方法が詳述されており、個々の患者の価値観や状況を考慮した意思決定の重要性が述べられている。
3:What every teacher needs to know about clinical reasoning ASME
この論文では、臨床推論の教育方法やその重要性について論じられており、医学教育における体系的な臨床推論の学習が強調されている。
4:鍼灸院より精査目的で紹介され、関節超音波検査で診断しえた血清反応陰性関節リウマチの一例 日本東方医学会