月: 2025年3月

    【コロナ禍で見えたEBMの限界:実は権威主義だった?AIが導けた最適解とは】

    これは批判ではなく、未来への希望のメッセージである。私たちは過去の出来事から何を学び、どのように未来をより良くできるかを考えるために、この話をする。コロナ禍でのワクチン政策や感染症対策を振り返ると、「EBM(Evidence-Based Medicine)」が本当に科学的な意思決定に使われたのか? という疑問が浮かぶ。表向きは**「科学的に証明された最適解」として進められたが、実際はEBMの限界を無視した権威主義的な運用が行われた面もあった。た、もし当時、今のようなAI技術が十分に活用されていたら、より柔軟で合理的な意思決定が可能だったのではないか? という仮説も考えられる。

     ワクチン絶対視 vs. 反ワクチンの二項対立

    ① 「慎重派」という視点が封じられた

    コロナ禍では、「ワクチンは絶対に必要」派と「ワクチンは危険だから打つな」派の二極化が進んだ。しかし、本来あるべきだったのは、「EBMの不確実性を認めながら、状況に応じて慎重に判断する」視点。「ワクチンの効果とリスクを冷静に見極める」意見は、両陣営の過激化によってかき消された。

    ② 世論誘導に関わったインフルエンサーを追及しても意味がない

    一部のインフルエンサーやメディアが「ワクチン反対派=非科学的」「ワクチン推奨派=合理的」といった単純な構図を作り、世論を誘導した側面があった。ただし、今になって「当時、世論を誘導していた人間を見つけて叩く」ことに意味はない。それよりも、なぜこうした二項対立が生まれ、冷静な議論ができなかったのかを振り返り、次に活かす方が重要。

     ③ 井筒俊彦的視点:「言語ゲーム」としての対立構造

    井筒俊彦の視点で見ると、「ワクチンをめぐる対立」は、科学の問題というより「言語ゲーム」の問題だった可能性がある。「ワクチンを打つか打たないか」の二択に収束することで、他の議論の可能性が封じられた。もし「EBMの不確実性」や「個別最適の視点」を前提に議論できていれば、冷静な意思決定ができたかもしれない。

    もし当時AIが活用されていたら、最適解を導けたか?

    コロナ禍の意思決定の問題点は、「EBMの枠組みで判断しようとしたが、それが機能しなかった」ことにある。では、もし今のようなAI技術が当時活用されていたら、より良い意思決定が可能だったのか?当時はAIが開発されていなかったしあくまでも「たられば」の話になってしまうが考えてみたい。

     ① AIは「リアルタイムのデータ解析」と「推論」が得意

    EBMは「過去のデータ」を基にしているが、AIは「今あるデータから未来の推論」を導き出せる。例えば:「ワクチンを強制した場合」と「自主判断に任せた場合」、どちらが長期的に良い結果を生むか?「ロックダウンを導入した場合」と「段階的緩和した場合」の社会的・経済的影響は?こうしたシナリオ分析が、EBMよりも柔軟に行えた可能性がある。

     メタモダン的な希望:「AI+人間の意思決定」が未来のスタンダードに

    ・AIは「科学的データの処理・推論」に強いが、「倫理や社会的価値観」を考慮するのは苦手。

    ・ 人間は「倫理的・政治的な判断」ができるが、「膨大なデータ処理」や「未来の推論」は苦手。

    ・ だからこそ、「AIの最適解+人間の意思決定」を組み合わせるのが、次世代の医療や政策のカギになる。

    EBMの限界を認めることは、科学を否定することではない。むしろ、科学をより良くするために、AIの力を借り、人間の意思と融合させる新しい枠組みを作ることが、未来への希望になる。なお、再度繰り返しになるが これは批判ではなく、未来への希望のメッセージである。過去の失敗を責めるのではなく、それを超えて「より良い未来を作る」ための視点を持つこと。EBMの次のフェーズとして、AIと人間の協働による新しい意思決定モデルを構築することが、これからの課題であり希望になる。

    メタモダン的な価値観で現代の幸せと医療を考える

    社会の価値観は時代とともに変化してきた。明治維新から戦前の「モダン(近代)」、戦後高度経済成長から平成の「ポストモダン(脱近代)」、そして現在の「メタモダン(超ポストモダン)」の流れを理解することで、「幸せとは何か?」を考える手がかりが見えてくる。(*これは明確な定義があるわけではありません。流れを理解するための枠組みと理解してください。)

    特に、ポストモダンの時代には「有名にならないと発言権が得られない」宿命があったが、メタモダンの今は必ずしもそうではない。これは、ビジネスや社会の在り方、さらには医療の分野にも影響を及ぼしている。本記事では、時代ごとの価値観の変遷を整理し、ポストモダン的な知識人の役割とその限界、さらにメタモダン的な知識人の登場について考察し、現代の幸せのあり方や医療の変化まで掘り下げて考えていく。

    1. モダン・ポストモダン・メタモダンの特徴とキーワード

    まずは、それぞれの時代ごとの価値観を整理してみよう。時代の流れとともに、何が「幸せ」とされてきたのか、どのように価値観が変化してきたのかを見ていく。

    (1) モダン(近代)|明治維新から戦前

    基本的な考え方:「科学と合理性が世界を進歩させる」

    キーワード:科学的合理性、進歩主義、権威、成長、経済至上主義、集団主義、中央集権、国家の発展

    特徴

    科学万能主義:「すべては科学で解明できる」という信念。

    国家の発展=幸福:近代国家の形成とともに「経済発展こそが幸せ」と考えられた。

    ピラミッド型の権威構造:政府・学問・医療の権威が強く、トップダウン型の社会。

    個人よりも集団のための幸福:社会のために個人が尽くすことが美徳とされた。

    伝統的価値観が重視される:家父長制度や儒教的道徳観が強く、個人の自由よりも社会の規範が優先。

    課題

    科学や権威の暴走(戦争・帝国主義・科学技術の過信)

    個人の自由が軽視される(社会のために犠牲を強いられる価値観)

    経済発展が最優先され、社会的な格差や環境問題が軽視される

    (2) ポストモダン(脱近代)|戦後高度経済成長から平成

    基本的な考え方:「絶対的な真理はなく、価値観は多様である」

    キーワード:相対主義、ナラティブ、アイロニー、権威の崩壊、多様性、脱成長、コミュニティ、消費文化

    特徴

    権威の相対化:「国家・企業・学問の権威は絶対ではない」と批判が強まる。

    成長・進歩の限界を知る:高度経済成長が終わり、資本主義・経済成長至上主義に疑問が生まれる。

    個人の経験・ナラティブの重視:「唯一の正解はない。人それぞれの物語がある」と考えられる。

    アイロニーと批判精神:権威や社会のルールを皮肉り、批評する文化が生まれる。

    ポップカルチャーの台頭:消費文化の発展とともに、大衆文化が知的批評の対象になる。

    課題

    「何が正しいかわからない」ことへの虚無感

    批評・相対化に終始し、実践や行動が伴わないことが多い

    権威を批判しすぎた結果、社会の基盤が揺らぐ(ポスト真実の時代へ)

    (3) メタモダン(超ポストモダン)|現在

    基本的な考え方:「科学も主観もどちらも大事にしながら、最適解を探す」

    キーワード:統合、矛盾の受容、誠実なアイロニー、実践知、総合知、希望、再構築

    特徴

    二項対立を超える:「科学 vs. ナラティブ」「成長 vs. 持続可能性」などの二元論を超えてバランスを取る。

    アイロニーを理解しつつ、前向きに行動する:皮肉るだけではなく、実際に何かを創造する。

    新しい倫理と経済のバランスを探る:「利益と社会貢献を両立するビジネス」など。

    希望を捨てず、矛盾とともに生きる:「完璧な答えがないことを受け入れながら、前進する」。

    2. ポストモダン的な知識人の役割と限界

    (1) 「有名にならないと発言できない」時代

    ポストモダンの時代、特に平成の日本では、「社会を批評し、権威を相対化すること」が知識人の重要な役割だった。これは、モダンの時代に絶対的なものとされていた「科学」「国家」「資本主義」「権威」を疑い、その枠組みの外に出ることで、新しい価値観を提示するという試みだった。しかし、この時代の知識人には大きな宿命があった。それは、「社会に影響を与えるためには、有名にならなければならない」ということだ。

    現代と違い、当時はSNSやYouTubeなどの個人発信メディアが発達していなかった。知識人が発言力を持つためには、テレビ・新聞・雑誌・論壇といったメディアに登場し、「名前を売る」ことが必須だった。つまり、ポストモダン的な批評を広めるためには、既存のメディアの仕組みの中に入り込み、そこで影響力を持たなければならなかった。この「有名にならなければ発言権がない」という状況は、知識人にとって二重の矛盾を生み出していた。

    権威を批判しながら、自分が権威にならざるを得ない

    例えば、学者が「大学という組織の権威主義」を批判しても、彼ら自身が大学の教授や研究者であることが多く、結局「権威の一部」となってしまう。また、批評家が「メディアによる情報操作」を批判しても、彼ら自身がメディアの中で発言しているという矛盾を抱えることになった。

    アイロニー(皮肉)や批評に終始し、実践に結びつかない

    「すべての価値観は相対的である」というポストモダン的な視点では、何が正しいのかを決めることができない。その結果、「批判すること」や「現状を相対化すること」が活動の中心となり、「では、実際にどうするべきか?」という議論には踏み込めないという限界があった。

    (2) 例:宮台真司・東浩紀

    この時代の代表的な知識人として、宮台真司さんや東浩紀さんがいる。

    宮台真司:社会学者・批評家

    宮台真司さんは、1990年代から2000年代にかけて、日本社会の構造的な問題を批評し続けてきた。特に、彼の議論の中には「権威の崩壊」「共同体の喪失」「情報社会の功罪」といったテーマがある。

    宮台氏のポストモダン的特徴

    「モダンな社会が生み出した権威主義・国家主義」を批判する

    「あらゆる価値観が相対化される時代における個人の在り方」を問う

    「社会のシステムそのものが機能不全を起こしている」と指摘する

    限界

    彼自身が「メディアの権威」に組み込まれ、影響力を持つためには「有名であること」が不可欠だった。社会の構造を批判することはできるが、「ではどうすればよいのか?」という問いへの明確な解答を出しにくい。

    東浩紀:哲学者・批評家

    東浩紀さんは、ポストモダン哲学の文脈の中で、日本の文化や思想を批評してきた。彼の代表的な議論には「情報社会における個人の自由」「消費文化の本質」「オタク文化と政治の関係」などがある。

    東氏のポストモダン的特徴

    「近代的な哲学が前提としていた合理性や理性主義」を疑う

    「オタク文化やポップカルチャーを通じて、日本の思想を読み解く」

    「インターネットと情報社会が個人のアイデンティティに与える影響」を考察する

    限界

    「何が正しいのか分からない」時代の中で、批評の役割はあっても、それが具体的な行動に結びつきにくい。「アイロニーや皮肉」が議論の中心となり、「希望を持って社会を変えよう」という視点が持ちにくかった。

    3. いまはメタモダン的な時代|東畑開人・斎藤幸平の例

    ポストモダンの時代には、「批評すること」や「相対化すること」が中心だった。しかし、それだけでは社会を前に進めることはできない。現在のメタモダン的な時代では、「では、どうすればよいのか?」を探りながら、実践を重視する知識人が登場している。その代表が、東畑開人さん(心理学・臨床家)と斎藤幸平さん(経済学者)だ。

    (1) 東畑開人(心理学者・臨床家)

    東畑開人さんは、心理学やカウンセリングの分野で「科学とナラティブの統合」を目指している。

    メタモダン的な特徴

    「科学的な心理学」と「人の語る物語(ナラティブ)」を両立しようとする

    理論だけではなく、実際に「人と向き合うこと」を大切にする

    批評ではなく、「どうすればより良いケアができるか?」を探る

    東畑さんのアプローチは、「批判ではなく、現場で何ができるかを模索する」という点で、ポストモダン的な知識人とは異なる。

    彼は、「人間の主観的な経験」と「科学的な知見」の間で、バランスを取ることが重要だと考えている。

    (2) 斎藤幸平(経済学者)

    斎藤幸平さんは、マルクス経済学の視点から「資本主義の限界」を指摘しながらも、**「では、新しい経済の仕組みはどうあるべきか?」**という議論を展開している。

    メタモダン的な特徴

    「成長経済 vs. 脱成長」という対立を乗り越え、新たな社会モデルを探る

    単なる批判ではなく、実際に「脱成長社会」の具体的な可能性を提示する

    気候変動や環境問題の視点を取り入れ、「持続可能な未来」について前向きに語る

    斎藤さんの議論は、「資本主義は終わる」と批判するだけではない。

    彼は、「その後の社会をどう設計するか?」という希望を提示しようとしている。

    結論:ポストモダンからメタモダンへ

    宮台真司さんや東浩紀さんの活躍した時代は、「社会の問題を批評し、相対化する」ことを重視した知識人だった。しかし、今は「批評を超えて、何を実践できるか?」が問われる時代になっている。東畑開人さんや斎藤幸平さんのようなメタモダン的な知識人は、「理論」だけでなく、「実際に社会をどう変えられるか?」を重視している。これこそが、ポストモダンを超えた、新しい知の在り方なのかもしれない。これはどちらが上・下という話でないことは当然ながら付け加えておきたい。

    4. 医療におけるメタモダン的価値観

    医療の歴史もまた、モダン・ポストモダン・メタモダンという価値観の変遷と深く関係している。それぞれの時代において、「病気とは何か?」「治療とは何か?」「医療の目的とは何か?」 という問いに対する答えが変わってきた。ここでは、モダン医療・ポストモダン医療・メタモダン医療 という視点から、医療のあり方の変遷を考えていく。

    (1) モダン医療(科学万能主義)

    モダンの時代(明治維新~戦前)は、「病気=身体の機械的な異常」と捉え、科学技術によって治療すべき対象 として扱われた。この時代の医療は、「いかに病気を克服するか?」 という一点に集中していた。

    モダン医療の特徴

    病気は「客観的な異常」として診断されるべきもの

    身体を機械のように扱い、どこが壊れたのかを明確にする

    治療の目的は、「異常を修正し、正常に戻すこと」

    西洋医学が絶対的な地位を確立し、伝統医療は非科学的なものとみなされた

    この時代の医療の最大の成果は、感染症の克服 である。ペニシリンの発見やワクチンの開発により、結核や天然痘といった病気が制圧され、「病気は科学で解決できる」という信念 が確立された。しかし、このモダン医療には2つの大きな限界 があった。

    モダン医療の限界

    「身体=機械」モデルの限界

    すべての病気が「機械の修理」のように治せるわけではない。慢性疾患(糖尿病・高血圧)や精神疾患(うつ病・不安障害)は、単なる「異常の修正」では治せない。

    患者の主観や心理が軽視される

    「病気の科学的な説明」だけでは、患者の苦しみは十分に理解できない。「医師が正しい」という一方的な構造により、患者の声が軽視されがちだった。

    (2) ポストモダン医療(ナラティブ・患者主体)

    ポストモダンの時代(戦後~平成)になると、医療の考え方は大きく変化した。この時代には、「病気は単なる身体の異常ではなく、人間の物語(ナラティブ)と結びついている」 という考え方が強まった。

    ポストモダン医療の特徴

    病気は「個人の経験」として語られるべきもの

    「患者主体の医療」が求められる

    科学的な診断だけでなく、患者の語る物語(ナラティブ)を重視

    「医学的な正しさ vs. 患者の主観」という二項対立が生まれる

    この流れを代表するのが、ナラティブ・ベースド・メディスン(NBM) である。これは、「患者がどのように病気を経験し、どう感じているのか?」を医療の中心に置く考え方であり、「患者の人生と医療を結びつける」 という新たな視点を提供した。

    ポストモダン医療の意義

    患者の声が重視される

    「医師がすべてを決める」時代から、「患者が自らの医療を選択する」時代へ。

    インフォームド・コンセント(説明と同意)の概念が普及。

    精神疾患や生活習慣病に対する理解が進む

    うつ病や不安障害が「気の持ちよう」ではなく、治療が必要な病気として認識される。食事・運動・ストレス管理など、ライフスタイルが病気に影響を与えることが強調される。しかし、ポストモダン医療にも限界 がある。

    ポストモダン医療の限界

    「医学 vs. ナラティブ」という二項対立が生まれた

    科学的なエビデンス(EBM)と、患者の語るナラティブ(NBM)が対立する場面が増えた。「どの治療が最も正しいのか?」という明確な答えを出しにくくなった。

    医療の個人主義化

    患者主体の医療が進む一方で、「すべての選択が自己責任」とされる傾向が強まった。「自己決定」が強調されすぎると、医療の社会的な責任が後退する可能性がある。

    (3) メタモダン医療(Beyond EBM・統合的な医療)

    現在、ポストモダンの時代を超えて、「科学とナラティブを統合する新しい医療」 が模索されている。これを、「メタモダン医療」 と呼ぶことができる。

    メタモダン医療の特徴

    科学的なエビデンス(EBM)と、患者のナラティブ(NBM)を両立する

    「医療は科学か、主観か?」ではなく、その両方を適切に組み合わせる

    医療者と患者の関係を「対立」ではなく「協働」として捉える

    「希望を捨てない医療」を目指す

    メタモダン医療は、「EBMでもない、NBMでもない、その先へ(Beyond EBM)」 という考え方に基づいている。これは、科学と主観の対立を乗り越え、どのように最適な医療を提供するか? という問いに応える試みである。

    5. まとめ:メタモダン的な医療と幸せとは?

    (1) 医療の進化

    モダン医療:「病気を科学的に治すこと」が目的だった

    ポストモダン医療:「患者の語る物語」が重視された

    メタモダン医療:「科学とナラティブの両方を大切にする医療」へ

    これにより、医療は単なる「治療の技術」ではなく、「人と人との関係の中で、どう最善のケアを提供するか?」という問いへと進化している。

    (2) メタモダン的な幸せとは?

    メタモダンの時代において、「幸せ」とは何か?それは、「完璧な答えがないことを受け入れながら、それでも最善を探し続けること」 だ。

    絶対的な幸福の形はない。だが、それを理由に絶望するのではなく、希望を持って進む。科学とナラティブを両立させながら、最適なバランスを模索する。批評や相対化に終わらず、実際に何ができるかを考える。これこそが、メタモダン的な幸せの形であり、医療にも、社会にも、個人の生き方にも通じる、新しい時代の価値観なのではないだろうか。